「政治的正しさ(Political Correctness)」の危険性

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  • 同性婚国民意見調査とホームスクーラー

完全に侮っていた。

今回は3人目の妊娠なのだが、上の二人の妊娠中のつわりはここまで酷くなかった。

ここ4ヶ月朝から晩まで食べようが食べなかろうがずっと気持ちが悪く、毎日ほぼ廃人状態の中、ホームスクールの勉強も中々時間がとれなかった。長女は私が廃人期間中は勉強しなくていいのでラッキー程度にしか考えてないだろうけど、さずがに4ヶ月もルーティーンが崩れると習慣付けていた毎朝の勉強を再開しようにも長女とひと悶着もふた悶着もあり、改めて毎日の習慣づけは大切だと痛感させれた。

 

そんなホームスクールもブログも小康状態の4ヶ月の間に、私達ホームスクールグループにも影響を与える全国的な「事件」がオーストラリアではあった。

 

事件は同性婚の是非について国民の意見を問う「調査書」が全国の有権者に送付された9月中旬に始まった。各メディアは「調査書」を「Vote」(投票)として報道しているが、実際には「Survey」(調査)であってこの調査の結果によって同性婚の即合法化とはならない。実際に調査書の送信者はオーストラリアの統計局で、選挙管理局が管轄の国政選挙とは性格を異にしているし、国政選挙のように投票棄権で罰金が課せられる事も今回の「調査」ではない。

にも関わらず、今回の「調査」の国民の関心は相当に高く「調査書」が9月半ばに送付されて以来、10月10日の時点での「調査書」の返却率は62%にも及んでいるという。

(Gay marriage: ABS reveals latest figures on how many have voted in SSM survey

 

*このブログを書きかけでまた体調不良で1ヶ月以上放置していた間に、投票期限が過ぎ、最終的な投票率は79.5%にも達したそうだ。(Australian Marriage Law Postal Survey)

 

ホームスクーラーの保護者の中でも、例外なく今回の件についての関心は非常に高い。いや寧ろホームスクーラーだからこそ関心が高いのではとさえ思える。ホームスクーラーは課外授業やイベントの参加者との連絡に、フェイスブックを多用するのだがその中で自身の立場を主張している保護者に目をやると、同性婚に賛成「Yes」派と反対「No」派はホームスクーラーコミュニティでは半々くらいなのではと感じた。

 

もともとホームスクーラーコミュニティーが無宗教で非常にリベラルな家庭とその正反対のカトリック、キリスト教系の保守派メンバーの混合で成り立っているため思想の正反対のもの同士が、子どもの将来という共通の利益のためにコミュニティを形成している所に無理があったのか、結論から言うと、今回の「調査」をきっかけにしてメルボルンにいくつかあるホームスクーラーコミュニティーの一つは「Yes」か「No」かの意見の相違による誹謗中傷合戦の末に空中分解してしまった。

 

私は学生時代の教訓から政治的立場は表明しない事にしているので、今回の誹謗中傷合戦中はただの傍観者だったし、コミュニティーの空中分解以後は比較的小さなコミュニティーがいくつかフェイスブック上に形成されたので、長女のホームスクールの行事についても新しいコミュニティーで継続していく事ができるので実害はほぼなかったが、誹謗中傷合戦の当事者の多くが感情的になり、小学校低学年の言葉で言えば「あなたとはもう絶交よ!」という結果になっている。

 

日本では政治的信条の違いで国が分断されるほど国民側が政治に関心を持っていなさそうなので、こういった事件は一般市民レベルでは発生しにくいのではないか。もっとも、今回は「Yes」のリベラルにとっては政治的信条に関わる問題かもしれないが、「No」派のカトリック、キリスト教系の保守派にとっては宗教の問題であろうから、そもそもこの話し合いのための土台が二派では全く別次元過ぎたのかもしれない。

 

  • 同性婚賛成派と反対派の背景

ホームスクーラー内の同性婚の話になってしまったが、実際に賛成派と反対派はどのような人間で構成されているのかは以下のHousehold, Income and Labour Dynamics in Australia (HILDA) Surveyの結果に見ることができる。

www.abc.net.au

 

簡単にまとめると、同性婚賛成派の傾向としては都市部に住んでいて、女性が多く、無宗教、高学歴、高収入の白人中流階級が多い傾向にあり、反対派は主にカトリック、キリスト教、その他の伝統的な信仰を持っており、非白人家庭が比較的多いとHILDA Surveyの結果が出ている。これはホームスクーラー同士の喧嘩の当事者をほぼ言い当てている。

 

「喧嘩」と言ったのは、正直をいうと今回の件で賛成派に回ったリベラルな高学歴、高収入の中流階級であるはずの層が本件を語る際に全くそのような経歴に見合うような建設的な態度で感情的にならずに議論を交わす事ができなくなっているのを目の当たりにしたからだ。どちらかというと宗教的な価値観に基づいた同性婚反対派の方がHILDA Surveyの傾向からして感情的な議論を進める様子の方が私にとっては想像しやすかったのだが、現実には反対だった。賛成派のリベラルな層は「同性婚支持原理主義」ではないかと思える攻撃性を持っていたし、主張も公に堂々としていた。

 

  • 「政治的正しさ」に守られた賛成派の主張

賛成派がここまでオープンに態度をできた原因のひとつを、その主張が「政治的正しさ」に守られていたからではないかと私は思っている。日本を離れて8年近くなるので、日本の事情には疎いが少なくともオーストラリアでは「政治的正しさ」は誰にもその価値を疑いようのない、議論の余地のない「正義」のような扱いだ。

アメリカでも最近のGoogle社員が性差別的な「政治的に正しくない」思想を持っていたために解雇されたニュースからも欧米社会がいかに「政治的正しさ」を重視しているかがわかる。「政治的正しさ」を信仰しないものは「正義」に挑戦しているまさに「悪者」扱いだ。

ホームスクーラーコミュニティで同性婚反対派を攻撃して人間関係を断ち切ってしまった人達と、Googleの社員解雇の本質は全く同じだ。

 

この状況は非常に危ない。「政治的正しい」とされる思想は同性婚賛成、中絶賛成、男女平等、人種差別をしない事に限らず沢山あるが、これらの主張が多数派を占めると反対派(少数派)は自らの立場を主張できなくなる。主張すれば即座に「悪者」扱いだ。

今回のSurveyでもそれが起こっていた。同性婚反対派は「悪者」になるのを恐れて黙り込んだ。わざわざ税金を約100億円も投入してSurveyをしたのは、国民の意見を表明できるようにする目的であって、魔女狩りではないはずだ。にも関わらず反対を主張する事が「政治的に正しくない」空気を読んだ反対派は強く意見を主張できなかった。

 

  • 「政治的正しい」主張をする事の盲点

今後もオーストラリア社会がますます多様化して行くにあたって、様々な政治的、思想的ジレンマを経験する事になるだろう。そのときに、多数派が支持する意見を「政治的正しい」意見としてラベリングしてしまえば、反対派は意見を言えなくなってしまう。それでより良い社会がつくれるだろうか。

もともと同性婚に賛成しているリベラル派は少数派の「同性愛者」の権利を守ろうとしていたのではないか。だとしたら、「政治的に正しくない」意見を持つ少数派を自分の思想、意見と合致しないからといって攻撃する行為そのものが矛盾しているとは思わないのだろうか。

 

いままで書いてきた賛成派と反対派の攻防はあくまで私の身の回りで起こった事で、もちろん中には私が目にしなかっただけで、攻撃的で無礼な反対派も多数いただろう。なので、賛成派だけを非難するつもりは全く無い。

ただ、「政治的正しいこと」を主張する側の人間は現代社会においては多数派の大衆の意見に守られた圧倒的な有利な状況下で主張をしている事を知った上で議論をして欲しいと思っている。

 

多数派の意見が通る民主主義に慣れてしまった私達には、「政治的正しさ」はとても受け入れやすいコンセプトだが、多数派がいつも正しいと限らない事は歴史が何度も証明している事も頭のどこかにいれておくべきであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「外向的」か「内向的」か自分に対するLabelingを疑ってみる。

 

 

  •  自分は「外向的」か「内向的」か

 

私は「内向的」だと言うと、私を知っているほとんどの人は驚く。というよりも、まず信じてくれない。普段のグループセッティングでの私はどちらかと言うと良くしゃべるほうだ。面白い事を言って(多分その殆どが全く面白くないのだろうが、)その場を和ませたいと思うし、たとえ面白い事を言えなかったとしてもその場がスムーズに進行するように何か言った方が良いのであれば、多少出しゃばってでも発言するように「努めて」いる。

 

この「努めて」というのがポイントで、真正外向的人間は「努めて」発言しようとしなくても、ずっと話を続けられるらしいし、社交的な場が「好き」であるらしい。もっと言えば、社交的な場にでたり、誰かと時間を過ごしている事が彼らにとっての日常で、それを苦痛と感じないし、余暇はいつも友達や知人と過ごすのが真正外向的人間の特徴らしい。

 

 

  • 「内向的」人間のオーストラリア生活の苦労

 

そんな私がオーストラリア生活で最も困っている事の一つが「パーティー」がやたら多い事だ。誕生日、新築祝い、長期休暇祝い、クリスマス、お正月、旧正月、イースターホリデーの度に、大体誰かの家で「パーティー」が開かれる。

 

「パーティー」といってもその殆どが日本人がイメージするお洒落をして参加するような「パーティー」ではなく、デニムにTシャツでバーベキューをするのも、こちらでは「パーティー」扱いだ。残念ながら、私は庶民なので参加する殆どが冠婚葬祭を除いてデニム&Tシャツパーティーだ。幸運にも(外向的な人にとっての不幸だが、)私も主人も友達の数が多くないので、

1年に参加するパーティーは10回程度に抑えられている。一方で、真正外向的人間の知り合いの多くは月数回のパーティーを余裕でこなしているし、長期休暇シーズンなどは1日に2つのパーティーを梯子していたりする。

 

もし仮に私が真正外向的人間のパーティースケジュールをこなそうとしたら、1ヶ月で体か精神が壊れるのではないかと思う。

私は「内向的」な人間なので、基本的には一人で居る方が落ち着く。人ごみは大嫌いだし、旅行の予定を組むのならどこか景色の良い静かな所で静かに本を読んだりするだけでとても幸せな気分に浸れる事間違いなしだ。

 


 

 

  • 「外向的」>「内向的」ではない

「内向的」人間にとって残念なことに、世間では「外向的」>「内向的」と認識されている。家で一人で漫画ばっかり読んでいたり、オタクな趣味に耽っていたりすると大体の子どもが親に怒られるだろう。

 

実際私が経験した外資系投資銀行の選考プロセスでは、大学生に自分の名前の入った名刺が20枚渡され、約40分の先輩社員との立食パーティーの間に、会話を交わした先輩社員全員にその名刺を渡すというものがあった。その企業が何を見ていたか、真意は不明だが、制限時間内により多くの先輩社員と会話して、良い印象を残せるかどうかが見られていたのではないかと察する。これはもし「外向的」人間であったなら、とても自然にこなせるはずの作為だ。

 

私は世間の「外向的」>「内向的」構図を知っていたため「努めて」外交的にふるまい、その選考プロセスを突破してしまった。どのみち、次の筆記試験であえなく撤退してしまったので、この企業については結果オーライなのだが、他の企業の選考プロセスにおいても「外向的」に振舞った結果、結局は間違った企業に就職してしまったのではないかと今になって思う。

 

 

「外向的」な人間と「内向的」な人間、実世界ではどっちの人間も必要なのは間違いない。「内向的」なエンジニアが一人でいいものを作り上げたとしても、それを外に発信しなければ社会に役に立つアイデアとしては広がらない。「外向的」な人間が毎日おしゃべりばっかりしていても、イノベーションは起こしにくいだろう。

 

 

世間の「外向的」>「内向的」認識に自分を合わせる必要はない

 

ここで私が言いたいのは、どちらがより優れているかという事ではない。

世間の価値に流されて、そうでない自分を世間の価値に無理やり合わせるための苦労はしなくてもいいし、しても無駄だというと言う事を私は言いたい。

私は社交の場ではよくしゃべるし、よく笑う。会話の中心にいる事もよくある。それが「努めて」できてしまうので、いつも周りから「外向的」な人と言われ続け、それを自分自身もつい最近まで信じていた。とても明るい性格とも言われているが、ひとりの時間がなによりも好きだ。必ずしも「内向的」=「根暗」ではない。

真正外向的人間とわたしのような「見かけだけ外向的人間」の違いを挙げるとすれば、「見かけだけ外向的人間は」、社交的な場に参加すると非常に疲弊するところだ。出来る限り、多くの人と出会うイベントへの出席は避けたいし、参加したものなら翌日、翌々日、ひどいときは一週間「自分だけの」時間を持ちたい。

無理やり「内向的」人間が「外向的」人間として取り繕ったとしても、そもそも疲過ぎるし、ひどい時には間違ったキャリアやパートナーを惹きつけてしまう可能性もある。

  

  • Outgoing IntrovertsとOutgoing Extroverts

 

日本ではあまりなじみの無い言葉で、気の利いた翻訳も出来ないのは私の力不足だが、

英語にはOutgoing IntrovertsとOutgoing Extrovertsという言葉がある。

Outgoing Introvertsは外向的な内向的人間、Outgoing Extrovertsは外向的な外向的人間の意だ。もう何が言いたいのかさっぱりわからないが、Outgoing Introvertsの方は私のようなひとりの静かな時間を愛しながら、社交の場も難なくこなせてしまうために、その後非常に疲れてしまい家にこもりがちになる、またはそれがわかっているので極力社交の場に出る機会をコントロールしている人間で、Outgoing Extrovertsとは上述の真正外交人間に近い。

なんとなく、自分が「内向的」な人間なのは薄々感じていたが、如何せん物心がついてからずっと「外向的」と言われていたために、自身もそれをすっかり信じきってしまっていた。

最近になって運よくOutgoing IntrovertsとOutgoing Extrovertsの存在を知り、明るく社交的に振舞える人間が「内向的」な事はよくあると知らされた。

 

 

  • 「自分は○○な人間である」を疑う

 

 自分がどんな人間であるかについて、Labelingをする必要自体がないかも知れないが、

「外向的」や「内向的」に限らず、「私は○○と言う人間である。」と思っている節があるのなら一度その前提やそう思うに至ったプロセスを疑ってみると自分に対する面白い発見があるかもしれない。

 

参考までに英語になってしまうが、Outgoing IntrovertsとOutgoing Extrovertsについての説明が簡単にされているサイトを以下に。

www.lifehack.org

 

listaka.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リンダグラットン著『ライフシフト』を読んで③ The 100-Year Life Lynda Gratton、 Andrew Scott

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** 誰でもネットで調べ物が簡単にできる時代では「経験学習」の重要性が高くなる

 

この点については、わざわざグラットン氏に指摘されなくても、詰め込み型の受験教育が現場で「使えない」学歴エリートを大量に企業に供給し続けた結果、経済界が従来の教育制度に変革が求め、2020年をもってセンター試験廃止となった事からも日本人にとっては受け入れやすいアイデアだろう。

 

文部科学省はこのセンター試験改革で学生に「Creativeな思考力」を身につけさせたいとしているらしい。現行の大量暗記型のテストは高度成長経済の中での労働者大量供給の需要に応じるために必要だったのが、今では時代遅れになってしまったと国が認識した事は非常に意味がある事だ。

(私はこの新しいタイプの受験であっても、結局は大手の塾や進学校を中心に「Creative思考法」まで受験対策として教えてしまい、受験生が均一的に「Creativeっぽい」解答をするようになるのではないかと危惧しているが。)

 

昔テレビで紹介されていた中学生の珍解答、

【問題】「打って変わって」をつかった文を作りなさい。

に、「お父さんは薬を打って変わってしまった。」と解答した学生は2020年以降は晴れてCreativeな解答として点数がもらえるようになるだろうか。

 

 

home-ed-mum.hatenablog.com

上の私のブログにも書いたが、オーストラリアの小学生に自身が「Creative」であるかと聞いた場合、9歳にして既に多くが自分はCreativeでないと思ってしまっている。子どもの自己申告なので、本当はCreativeである事を子ども達は気がついていないか、学校生活で上からの指示に従う過程でクリエイティブである事は危険なので封印してしまったかのどちらかではないかと察している。

 

子どもは生まれつきクリエイティブであったはすが、大学入試で「Cerativity」を「身に着けさせられる」のは教育にとっての皮肉だ。

Creativityが大学入試の方法を変更しただけで身につくと思えなかったとしても日本の受験生が大学入学をゴールにして意味のない大量暗記型の勉強を何年もする負担が多少は減るのであれば、今回トップダウンで入試改革をした意味はやはり大きい。

 

前置きが長くなってしまったが、グラットン氏の「経験学習」の比重が多くなるというのは、逆にいえば「机上の学習」の比重が小さくなる、または「机上の学習」と同様に「経験学習」も大切になるという事であろう。

 

『ライフシフト』では、 

インターネットとオンライン学習が発展して、単純な知識なら誰でも簡単に獲得できるようになる。知識の量ではライバルと差がつかず、その知識を使ってどうゆう体験をしたかで差がつく時代になるのだ。…マニュアル化できない暗黙知はきわめて大きな経済的価値を持つ。

暗黙知は知恵と洞察と直感の土台で、実践と繰り返しと観察を通じてはじめて獲得できるものだ。

 

とても興味深いのは、テクノロジーが進歩し人々はロボットに仕事を取って代わられる事や高度な専門的な知識を身につけなければ生き残れないと恐れているが、一方でテクノロジーが進歩しているからこそ、リベラルアーツ(教養)教育、共感能力などの人間的なスキルがより重要になるという点だ。

 

将来的にテクノロジーがどんな速さでどこまで発展できるかなど私の頭では全く想像が追いつかない。それでも、テクノロジーが人間に変わって問題を「発見」したり、対人スキルや共感スキルを駆使して職場で根回しをしたりできる日が近いとも思えないし、どんなに子どもをあやすのが上手いロボットが現れたとしても、自分の子どもの面倒をロボットにさせたいとは思えないだろう。(もしかしたら、人間より優れた人間ロボットがいつかできるかも知れないが。)

 

世界的に均一な「知識」へのアクセスが容易になる中で、知識詰め込み型の労働者への需要は減り、無料の知識があふれる中では知識詰め込み型労働者への報酬も減って行くだろう。

一方で、「経験学習」は何を経験し、その経験を通して何を学んだか、その結果として生じた個々人の問題解決アプローチや発想の違いに価値を見出す。

 

個々の経験やアプローチの違いに価値を見出すとても人間くさい部分が、今求められ始めている事は、日本国民の85%が被雇用者、サラリーマン(ウーマン)である時代の要求に矛盾するようで非常に興味深い。

 

厚生労働省白書『我が国の社会保障を取り巻く 環境と国民意識の変化』

http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/06/dl/1-1c.pdf

では、

就業者に占める雇用者 の割合は…1953(昭和28)年 42.4%だったのが、1959(昭和34)年には50%を(51.9%)、1993(平成5)年には 80%を(80.7%)超え、2005(平成17)年には84.8%となっている。

とし、戦後は約42%であったサラリーマンは2005年では約85%に達している。

一億総中流ならぬ一億総サラリーマンだ。サラリーマンであってもCreativeな職種や業種もあるので、一概には言えないが、一般的な日本の企業のサラリーマンが組織の中でCeativityを発揮している姿よりも、企業内のあらゆる規則に縛られながら働く姿の方が容易に想像がつく。日本だけでなく、欧米の大企業であっても稟議書のような物がぐるぐると回り続ける話を耳にした事がある。企業が大きくなればなる程、ルールは増えざるを得ないし、Creativityの発揮も限られるだろう。

 

もし万が一自営業者や家族従業者のCreativity教育が成功し、Creative人材が育ったとしても、受け皿は一億層サラリーマン社会であって、教育機関はCreative人材を輩出しようと学生を教育してもその結果Ceativityが評価されない社会に放り出される学生は非常に困惑するのではないか。

 

現状で、「経験学習」を基にした人間的スキルを発揮しようと思った場合、1953年辺りの自営業や家庭従業者で労働者の半数を占めていた時代の方より良い環境であったのではないか。

 

私が日本とオーストラリアでサラリーマンをした経験と、個人事業をした経験を比べるとCretivityは断然、個人事業をしていた際に役立つ事が多かった。ジュエリーショップを経営していたのだが、お客さんのニーズや性格、家族構成、ライフスタイルに合わせて自分なりのアイデアを提案した事が喜ばれたり、ショップの内装にしても、ポリシーにしても何処のお店にもないコンセプトで運営でき、それを気に入ってくれたお客さんが海外からもリーピーターになってくれたりした。

「中国語で接客できるメルボルン在住日本人のジュエリーショップ」というのは今振り返ると、グッラットン氏の言う、「経験学習」を生かした働き方そのものだったと感じる。

 

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ジュエリーショップ

 

そうすると、Creativityを発揮するには自営業しかないのかと言うと、そうではない。

日本にいると実感がないかも知れないが、オーストラリアではサラリーマンの自営業化が進んでいるように見える。高度な専門スキルを持っている友人は、契約社員である事が少なくない。契約は1から3年ベースで、企業内で自分のスキルが生かせる部門だけを担当し、契約が終了すればまた別の企業に転職していく。就職活動はクライアント探しであり、自分を売り込む営業活動に似ている点で彼らはサラリーマンであって自営業主のようだ。

 

数年毎に職場を変えるのは、ジェネラリストだと難しいかも知れないが、高スキル保持者の労働市場では日本よりもオーストラリアの方が先を行っている。

 

文部科学省がグローバルな人材を養成するために、Creativityをというアイデアには賛同しつつ、具体的に何故グローバルな人材を養成しなければならないのかを、世界の労働市場の先行きを、国民に示す事ができれば受験対策用のCreativityに終始しない、本当に使えるグローバルな人材を養成するための大きな一歩となるのではと思っている。

 

 


 

 

 

 

 

リンダグラットン著『ライフシフト』を読んで②

 

有形資産(簡単に言うと、お金)の形成を助ける点で無形資産の形成が重要である事について

 

グラットン氏は家族、友人、知識や健康を「無形資産」として捉え、これらは管理すべき人生の「資産」だとしている。

無形資産が重要だというのは、働きすぎの日本人には耳が痛いニュースである。

毎日長時間、週末も仕事をしている日本人は有形資産の形成は得意であっても無形資産の形成に投資できる時間がとても少ないのではないだろうか。

 

『ライフシフト』ではハーバード大学の『グラント研究』を引用し、

1938-1940年の学部生を75年間にわたり追跡調査をした結果、人生に満足している人に共通する際立った一つの要素は生涯を通じて強力な人間関係を築いている事だった。

幸福を支える支柱は「愛」と「愛をないがしろにしないで済む生き方」である。

としている、続いて『イースタリンのパラドックス』も引用し、

豊かな人ほど幸福度が高いが、幸福度は所得に比例しない。

国が豊かになってもそれに比例して国民の幸福度が高まるわけではない。

とし、有形資産以外の要因が人々の幸福度に貢献している事を指摘してる。

 

幸福度と所得が比例しない点については、メルボルンに住んでいると頻繁に実感させられる。オーストラリアは不動産バブルの真っ只中で、正社員のサラリーマン夫婦が1億円もする住居をどんどん購入している。聞くところによると、毎月収入の半分以上がローンの返済に充てられ、共働きでないと家計が回らない状態だ。

 

夢のマイホーム購入が家族の幸福度に直結する場合はいいが、正社員で働く母親に本当はこんなに働きたくない、もっと子どもと過ごしたいと泣きつかれたりすると、「1億円の家を売って、安い家を買いなおせばローンの負担も軽減するんじゃないか。」と言ってしまいそうになるが、それは彼女が最善だと思って決めた事であるから尊重したいと思って何も言えないでいる。

 

所変わって日本でも毎日家族のために一生懸命に有形資産獲得をしようと働いていた男性が、定年してみたら家に居場所もなければ友達もいない、無形資産がほぼゼロの事態に陥っている話をよく聞く。無形資産のない状態=「孤独」は喫煙よりも寿命を縮め、人間関係の失敗を経験するとギャンブル中毒やアルコール中毒になる確率が通常の人の2倍になるという研究結果もあるくらいに「人間関係」の健全さは健康に直結する問題である。

100年人生を健康的に全うしたいのであれば、誰もが今からでも友達を作っておいた方がよい。

 

かくいう私も生来の仕事中毒気質があり、一旦取り掛かるとどこまでも一人の世界に入れてしまうので、子育てをはじめてから子どもにゆっくりとした時間の過し方を教えてもらうまで、いつも定期的に友達関係をメンテナンスする事の必要を全く分かっていなかった。

 

日本では勤勉は美徳であり仕事は「聖域」であるので、なかなか仕事中毒に対して批判がし難い。仕事をしている限り、どれだけ遅く帰ってこようが、家事をパートナーに丸投げしようが文句を言えないし、むしろ文句を言う方が批判に晒される状況でさえある。一生懸命に仕事をして無形資産の形成を怠ったとしても、「仕事」に守られているために批判はされない。

 

オーストラリアの文化では仕事中毒は「悪」だ。仕事ばっかりしていると深みのないつまらない人間とみられるだろう。有形資産と無形資産のバランスの点で両国を比べると、オーストラリア人に軍配があがる。

仕事はあくまで人生を豊かにするための手段であって、目的ではないという態度のオーストラリア人は非常に多い。正社員であれば年4週間の有給をしっかりととる。週末や休暇中に仕事先から電話がかかってくる事は余程の事がないかぎり有り得ない。

 

しかしながら、とても興味深い事にこの「仕事」に対するスタンスの両極端な両国は皮肉にも2008年の世界の長寿ランキングで1位(日本)と2位(オーストラリア)にランクしている。http://www.aihw.gov.au/WorkArea/DownloadAsset.aspx?id=6442453674

 

両極端に見えるこの両国の現状をより深く理解すると、無形資産と有形資産のバランスのとれた人生を送るためのヒントが見えてくるかも知れない。

 

また長くなってしまったので、

** 誰でもネットで調べ物が簡単にできる時代では経験学習の重要性が高くなる事

については リンダグラットン著『ライフシフト』を読んで③へ続く。

リンダグラットン著『ライフシフト』を読んで①

ライフシフト半年前に、リンダグラットン著『ライフシフト』を読んだ。
英語の原文タイトルは『The 100-Year Life: Living and Working in an Age of Longevity』で、日本語に訳すと「人生100年。長生き時代を生きる、働く」といったところだろうか。

www.amazon.co.jp



先週発売の東洋経済で『ライフシフト』の特集が組まれていて日本では注目のタイトルのようだ。
。あと半年読むのが遅ければ、定価を払って400ページ強も読まなくても東洋経済だけで良かったかも知れないとちょっと切なくなったが、自身の老後と子育てにとても役立ちそうな内容だったので、私が忘れても主人が内容を覚えてくれていればと思い、Kindleで日本語版を読んだ後に、近所の図書館で英語版も主人用に借りてきた。



『ライフシフト』では、2000年以降に生まれた人口の約半分は104歳まで生きる試算に基づいて、経済的、精神的に充実した100年を生きるための戦略を紹介している。

日本では「長生きリスク」として、長寿である事に対して老後破綻や孤独死等のネガティブな印象をもって語られる事が多いが、『ライフシフト』では具体的に退職前のライフスタイルを維持するには現役時代にどの程度の貯蓄が必要なのかの世代別シミュレーションが紹介されており、「長生きリスク」を理解した上で、対策を講じていればマネージ可能なリスクであり、日本メディアの論調によって老後に
漠然とした不安を感じている日本人にはとてもおすすめの本だと思った。


この本で私なりに面白いと思った点は、


100年人生ではキャリアが一つでなくなる

オーストラリアに住んでいると、キャリアが1つだけで仕事人生を終えられる可能性の方が稀なのではとさえ思える。大学卒業後に就職した業界が衰退業界で今までのキャリアが活かせる会社がなくなり新しいスキルの獲得の為にその分野の学校へ入学したり、高卒で就職した人がよりより待遇を求めて30代に入ってから大学へ入学する話も良く聞く。

また、大企業の正社員であっても安泰ではない。企業の業績が悪化したり、部門の再編等の必要に応じた人員削減は日常茶飯事だ。人員削減の対象になった場合、勤務年数に応じた退職金をもらって退職する事となるが、日本の様にリストラが原因で自殺する話は殆ど聞かない。
寧ろ、自己都合の退職の場合は退職金が出ないのでリストラ対象になるまで粘る猛者もいるくらいだ。

100年人生を前提にした場合、日本人の様に個人のアイデンティティをひとつの組織に求める事は非常にリスクの高い試みだと言わざるを得ない。自分よりも会社が先に死んでしまう事もあるだろうし、組織由来のアイデンティティが、次の職場を探す邪魔をする事も考えられる。

私自身の経験からすると、新入社員で就職した商社で受けた新入社員研修はまさに個人のアイデンティティを組織化する為の洗脳教育だったと思っている。もともとブランド力のある大企業は、その会社が好きで入社する学生が多いのか、合宿所で朝から晩まで会社のために自分はどんな働き方ができるか、会社でどんな夢を実現したいか云々ひたすらワークショップやらレクチャーを聞かされても皆平気に、むしろ楽しそうにしている姿は私からすると異様というか恐怖であった。この会社はブラック企業ではなく、コンプライアンス部もきちんと機能している一部上場企業だ。残業代も請求すればばすんなり出るのだろうが、愛社精神か何かが邪魔をしているのか請求している社員は少数派だった。

そんな愛社教育を冷めた目で見ていた私にもかかわらず商社を退職し、8年前にオーストラリアに来た時のショックは絶大だった。
日本で会社員をしていらた頃は自己紹介は、会社名と部署を言うだけで良かったのが、オーストラリアに来たら
自分は何者かをどうやって紹介していいか分からなくて非常に戸惑った。その後オーストラリアで会社員、自営業、母親業、専業主婦を経験して行く過程で私のアイデンティティの構成要素は多様化した。今もし私がいくつかのアイデンティティ構成要素のうち、一つを失ったとしても8年前の様なショックと戸惑いを再度経験する可能性は低いだろう。一つを失ったとしてもそれが全てではないのだから。

Employablility(雇用可能性?雇用実現性?)の点で100年の人生で生涯に渡って一つの組織、一つのキャリアに固執するのはリスクが高い事はもちろんの事、個人のアイデンティティとメンタルヘルスのためにも必要に応じてキャリアチェンジを経験する事はプラスになるのではと改めて思わされた。

資産形成開始時期が早いほうが老後の蓄えには有利である事

世界はグラットン氏の意見とは反対に、資産形成の開始時期が益々遅くなっているようにみえる。

私は日本だけでなく世界的にOvereducated(教育過剰?)の傾向があり、その勢いが止まることを知らないように見える
現状を危惧している。日本では高校生の約半数が4年生大学へ入学しているし、オーストラリアでもその傾向は同じで大学進学率は
右肩上がりな状況だ。一方、需要以上の大卒生が毎年大量に供給される中で、大卒生の就職は厳しくなるばかりだ。

また、誰もがどこかの大学にはいれる「大学全入時代」では学士である事にどれだけあるだろうか。一昔前では、高卒者でもできていた仕事が今では大卒以上の学歴がないと履歴書さえも送れない状況だ。オーストラリアには日本のように企業が人を育てる文化はないので、文系新卒者の就職はとても厳しい。受付や事務の仕事であっても、それ専用の専門学校を出ていないと募集条件をクリアできないので、学士取得後に事務職の専門学校に行く学生も少なくない。

100年生きる前提で学歴取得の意味を経済的利益のみに単純化して考えると、学士、修士、博士の取得期間の逸失利益が
取得後の生涯所得を上回らない限り、学歴取得はあまり美味しい投資話ではない。特に大卒で低賃金の時間給労働をするくらいなら、中卒で7年、高卒で最低でも4年大卒より早く働き始めた方が、資産形成には有利だ。

中卒、高卒では心もとないというなら、より現実的に大学にパートタイムで通いながらインターンやアルバイトをして
資産形成の時期を早める方法もある。また、学歴取得をサポートしてくれる企業に就職する手もある。

知人の例を挙げると、数年前に不動産会社を起こした彼は、高卒で会計事務所でフルタイムで働き始め、その間にパートタイム
で大学で会計学んだ後に会計士になった。その後大手会計事務所に就職し、キャリアを積んだ後に起業し今に至っている。他にも、高卒で公務員となった後に夜間大学を卒業して転職せずに大卒の業務内容、給与体系に移行した知人もいる。主人の例を挙げると、最初の就職先は修士取得の講義出席のために仕事を抜け出す事が許可されていたし、現在は大学に研究員として勤務しながら、勤務時間内に博士論文を書いている。

働きながら学歴を取得する事は、実は資産形成を早める以外にも学歴取得時点ですでに職歴がある点で
就職に際して非常に大きなアドバンテージだ。

早期資産形成は、ホームスクーラーにとってはより身近に感じられるコンセプトでもある。
学業の傍ら家業を手伝ってお金を稼ぐこもいれば、高学年の子供が趣味の絵を低学年の子供に教えて収入を得ている子供もいる。資産と呼べる金額ではないかも知れないが、それでも今から少しずつ貯めて行けるのであれば、早期資産形成の上で有利な事は間違いない。


とても長くなってしまったので、

有形資産(簡単に言うと、お金)の形成を助ける点で無形資産の形成が重要である事

誰でもネットで調べ物が簡単にできる時代では経験学習の重要性が高くなる事

については次回に。

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子どもの成長を11年間に渡って追ったドキュメンタリー

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Life at 7 - About the Series - ABC TV

 

オーストラリアのテレビ局ABC製作のドキュメンタリーを見た。

 

約1万人から選ばれた11人の一般家庭のオーストラリア人の子ども達を1歳から11歳の長期に渡って追跡調査したドキュメンタリーで、育児中の親子の確執、両親の離婚等の家庭内不和を子どもが乗り越える様子が生々しくも微笑ましく映し出されている。

 

このドキュメンタリーが面白いのは、以前に私が教育関連の本を読み漁っていた時に出てきた数々の心理テストが11人の子ども達に対して実際に行われるところを見れるところにあった。

 

たとえば、マシュマロテスト(マシュマロ実験 - Wikipedia)を幼児教育の本で読んだ時は、子ども達が目の前におかれたマシュマロの誘惑にもがく姿を描く事ができなかったが、実際にはマシュマロをじっと見つめてただひたすらに待つ子ども、試験管が部屋を離れた瞬間にマシュマロを食べてしまう子ども、マシュマロのテーブルから離れてひとり遊びを始める子どもの苦悩が見られてその姿が何とも可愛くて仕方がなかった。

 

褒め方の違いがパフォーマンス結果に影響するテスト( Claudia M. Mueller、1998

http://www.itari.in/categories/ability_to_learn/praise_for_intelligence_can_undermine_childrens.pdf)では、ある問題を解かせて正解した際に、その子どもについての才能(頭がいい等)を褒めた対象群とその子どもが正解に至ったプロセスや努力を褒めた対象群とでは、後者の方がその後により難しい問題、簡単な問題を解かせた場合の両方に於いてテスト結果が前者を上回ったという研究、では褒め方の違いで実際に短期間でこれ程までに子どものマインドセットとテスト結果に影響がでる事を垣間見れ、自分もこどもを褒めるときに今までよりももっとプロセス重視にしなければと反省させられた。

 

     

ドキュメンタリーでは所々で、

Creativity (創造力)

Resilience(ストレスに耐性、逆境を跳ね返す力?)

の重要性が強調されており、いずれも私達のホームスクール哲学に合致していたので、ホームスクーラー1年生の私としてはほっとしたものだった。

 

Creativityは狭義のアートのセンスにとどまらす、それが「考え方」を形作るという点でIQよりも大切だと最近の研究で示されてるとドキュメンタリーでは紹介している。

専門家達は現代の子ども達は大人の管理下の多忙なスケジュールをこなし、Creativityを発揮する機会が減っているが、Creativityは人生で遭遇する様々な問題に対処するための問題解決能力の根幹を成す点でとても重要なライフスキルであるという。

Creativityはまた、子どもがResilienceを体得する上でもとても重要であるという。何か問題が起こった際に、ストレス下でも折れないためには創造力を駆使し思考を柔軟にしてあらゆる解決方法を探りながら困難に立ち向かわなければならないからだ。

 

11人の子ども達に「自分をCreativeな人間だと思うか。」と聞いた場合、多くの子どもが自分をCreativeでないと思っていたのには驚いた。家庭や学校生活で上からの指示に従い続ける状況下で、Creativeである事はともすると大人からの叱責を受ける機会を増やしてしまう自殺行為なのだろう。

 

ある実験では、子ども3人でグループを作り、大きな用紙と各色の絵の具を渡した。

大人からの指示で子ども達は紙には好きな絵を描いてもいいいが、その際に使える色は黒と茶色の2色であると伝えらた。他に色々な色が目の前にあるのに、である。そうすると子ども達は、とても不満そうな顔をしたり、他の色が使いたいと文句を言ったりしながら絵を描き始める。そんな中、3人の中でたった一人、描き終わった絵の右下に黄色い絵の具で点をつけた女の子がいた。すると、残りの二人の子ども達は「Oh, my got!!」、「なんて事をしたんだ!!」、「やっちゃいけないって言われてただろ!!」とその女の子を注意した。黄色い点は与えられた大きな紙からしたら蟻のような小さなもので、そこに点をつけたからといって、最悪の事態となる訳でもない。それでも、彼女の些細なルール違反は、学校生活でルールに従う事に慣れた子ども達にとってはあってはならないものだったのだろう。

    

実は私自身、似たような光景を先日図書館で見た。

長男が図書館のお絵かきタブレットで遊んでいたとき、訳が分からずプリントアウトのボタンを押してしまった。すると隣に座っていた近所の学校に通う2年生の女の子が母親である私に、長男の過ちが信じられないという表情で必死に訴えてきたのである。図書館にそんなルールはなかったのだが、その子の通う学校が図書館をグループで利用する際にはプリントアウトボタンは押してはいけないと教師から言われていたようだ。彼女は私が長男を怒らない事が理解できないようで、不満な表情を浮かべて今度は彼女の母親に言いつけに行った。

 

もちろん、学校で集団行動をする際にはプリントアウトボタンを押されたら、困る人間がいるのも確かで、そうしたルールが存在したとしても理解はできるが、問題はルールをどの程度まで守るかまたは破るかの裁量を身に着けるのが学校生活をしている間は非常に難しいところにある。

私の学生時代を思い出すだけでも、数々のルール違反をしたが、学校集団の中でのルール違反に対する処罰は公開処刑のようなものでともすると、ひとつのルール違反によって友人から差別の目で見られたり、いじめの対象にされてしまう可能性がある点で非常にやっかいで、ほとんどの生徒はルール違反リスクを冒してまで、自己表現をしようとはしないだろう。

 

オーストラリアの学校というと、日本よりはルールに縛られない伸び伸びとした教育方針をみなさんは思い浮かべるだろうが、どちらも産業革命以降の統一規格の子どもを育てるための学校制度の元で成立している点では同じなので、本質的には大差がないと思っている。

 

     

 

11人の子ども達は学校制度と家庭の狭間でもまれながらも、11年の追跡調査中は比較的Resilientに育っていった。調査中にシングルマザーになった家庭、新しい父親を迎え入れた家庭、兄弟が亡くなってしまった家庭や家族の健康に大きな変化があった家庭もあったが子ども達はたくましく育っていた。経済状況や階級も全く違う11人であったが、ドキュメンタリーを見る限りでは、どの家庭も親が十分に愛情を子どもに注いでいるように見えた点では共通していた。

まだまだ幼い子ども達が逆境を乗り越えるにあたって、親からの信頼と愛情以外に必要な物はないのだろうと感じさせられた。

11人全員が幸せな人生を送られるように願っている。

 

番組はオーストラリアのNetflix(https://www.netflix.com)で現在視聴できます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホームスクーラーの一日

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  •  誤解を生む「ホームスクール」

 ホームスクールをしていると言うとほとんどの場合、子供と1日中家にいてストレスが溜まらない私は正気かという反応だ。オーストラリア人は結構ストレートなものの聞き方をしてくれるので、「Are you crazy??」と直接聞いてもらえる事は私達が世間でどう思われているかを知れるのでありがたい。

 

ホームスクールを選択した時点で、ある程度正気でないと思われる事は想定内なのだが、私だって普通の母親なので、毎日1日中子供と家にいれば、気が狂いますよと答えている。Super mumだとも言われるが、私からすると毎日お弁当とおやつを作って、学校の送迎の通学ラッシュを週5日こなすスクーラーのお母さん達の方がSuper mumに見えるものだ。

 

「ホームスクール」という言葉が、多種多様なホームスクールの実態を表すのに最適な言葉ではないので、1日中家で勉強をしてると誤解されても致し方ない部分は否めない。私個人的には、ホームベースドエジュケーション(家をベースにした学習)という方がより実態に近いのではないかと思っている。

  •  長女6歳の時間割

 私達の家庭では、長女が6歳、長男が3歳と比較的小さいので、長女についてはヴィクトリア州のPrep(日本の小学1年生より1学年前の学年)のカリキュラムに沿いつつ、遊ぶ時間が勉強の時間を上回らないように気をつけた以下のような時間割を組んでいる。

 

       月曜 午前勉強     午後ダンスクラス

       火曜 午前勉強     午後友達と遊ぶ

       水曜 午前図書館のお話 午後友達と遊ぶ

       木曜 午前図書館で勉強 午後遊び

       金曜 午前図書館で勉強 午後体操クラス、友達と遊ぶ

       土曜 10時から15時まで 中国語学校で中国語とアートクラス

 

1週間で机に向かう学習の時間は今のところ約10時間程度だ。

 

私達の場合、学習内容は簡単な算数や日本語の読み書きの時間を約1時間ずつとってはいるが、国語がある程度できれば、自分で興味ある他教科の本も読む事ができるだろうという意図から学習内容のほとんどが国語(英語)を占めている。

 

  

 

この週間スケジュールをベースに、月に数回ホームスクーラーのイベント(社会見学、理科の実験、工作等)に参加している。ホームスクーラーというと家に一日中いるイメージとは違い、ほぼ毎日どこかにでかけている。

 

学校に行かない事で、友達関係はどうしているかともよく聞かれるが、毎日どこかに出かける度に、ホームスクーラーの友達と遊ぶ機会があるので、それほど友達を作るのに苦労した記憶もない。

 

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  • 「ホームスクール」の形態とアドバンテージ

私達のホームスクールライフは遊びを中心にしたスケジュールの中に学校の勉強を補う方法をとっているが、ホームスクーラー人口の中でも非常に多いカトリックの家庭では宗教を中心にホームスクールをしているし、アンスクーラーといって学校の教科をほとんど教えず、ライフスキルを学ぶ事を中心にしている家庭も少なくない。

 

元来、ホームスクールをする家庭というのはそれぞれに教育に求める個々のニーズが違っているもので自分達でカリキュラムや教育方針のイニシアティブをとれる事こそがホームスクール最大の利点だと考えている。

 

私の家庭では、机に向かう長女の集中力が一日中はとても持たないので最長でも1日2時間の学習にとどめているが、今後成長とともに徐々に時間を長くしていく予定だ。

 

低学年の間は、学校に通う子ども達と比べて、かなりのんびりとしたスケジュールなので、同級生と比べると「遅れている」教科もあるかも知れないが、その部分については心配はしていない。

 

私達の子ども達が将来的に何か没頭できる科目やテーマを見つけてくれた時、ホームスクーラーである事は大きなアドバンテージになるはずだ。

私が高校で経験したように、生物や数学の時間に英語の勉強をして、教師から教科書を投げられる経験をしなくても良く、自分で選んだ教科や活動に思う存分没頭しても誰からも怒られないだろうし、学習の動機付けについてまわりの友達がしているからというプレッシャーからは自由に自分自身に求められる事は非常に重要であると思っている。

  •  受験戦争と進路

日本でもオーストラリアでも大学受験準備の混沌とした時期というのはとてもストレスフルで、進路を考える時期といった点ではとても最適な時期であるとは思えない。

大学進学を視野に入れているなら、高校2年生辺りから(場合によってはもっと早くから)受験勉強を一日何時間もしている生徒は多いだろう。

(オーストラリアでは高校生活最後の2年間の成績が直接大学入試の点数に関わる)

 

受験と時間の2つのプレッシャーの元で、志望校を決めなければならない。志望校を決めることは将来どんな職業に就くか、就けるかに関わる事でそう簡単に決められる事ではないだろう。ほとんどの高校生は、私もそうであったように学校の進路相談という名の成績から自動的に弾き出された射程圏内の大学への入学を勧められるか、保護者からの希望から外れすぎないような進路、または友達の選択と似たような進路を選んでいるのではないか。

 

私自身の経験を例に挙げると、志望校には合格したものの、結果的に保護者の意見に流されてしまい「潰しが利く」法学部へ入学するという悲劇の上、結局大学2年生で大学を2年間休学、元々希望していた進路に近い経験を積み、同級生より2年遅れて卒業する事になった。

 

「潰しの利く」法学部の悲劇は私だけに限った事でなく、友人にも在学中に全く法律に関係のない専門学校をダブルスクールしていたり、卒業後に違う大学へ入学した者もいた。確かに、就職の際法学部出身者はどんな企業、業界、職種にでも採用されているので「潰しの利く」という親のアドバイスは間違っていなかったと思う。ただ、そういったアドバイスをする大人自身が、その内容にどれだけ責任を持てるだろうか。

 

受験勉強を頑張ってしまう子どもは比較的大人に従順な「いい子」が多いだろう。

だからこそ、外部からのメッセージを送る大人は非常に慎重にならなければいけない。

欺く言う私も親として自分の子どもの進路について意見してしまう日が近い将来訪れるだろう。そんな時にためにこのブログを備忘録にしたいと思っている。

 

「ホームスクーラーの一日」の話から大分と逸れてしまったが、比較的ゆっくりとしたスケジュールをこなしているので、私は皆さんが言う程のcrazyな生活をしているのでもなければ、super mumでもないと言う事を知って頂きたく。

 

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