リンダグラットン著『ライフシフト』を読んで③ The 100-Year Life Lynda Gratton、 Andrew Scott

f:id:home-ed-mum:20170813193749j:plain


 

** 誰でもネットで調べ物が簡単にできる時代では「経験学習」の重要性が高くなる

 

この点については、わざわざグラットン氏に指摘されなくても、詰め込み型の受験教育が現場で「使えない」学歴エリートを大量に企業に供給し続けた結果、経済界が従来の教育制度に変革が求め、2020年をもってセンター試験廃止となった事からも日本人にとっては受け入れやすいアイデアだろう。

 

文部科学省はこのセンター試験改革で学生に「Creativeな思考力」を身につけさせたいとしているらしい。現行の大量暗記型のテストは高度成長経済の中での労働者大量供給の需要に応じるために必要だったのが、今では時代遅れになってしまったと国が認識した事は非常に意味がある事だ。

(私はこの新しいタイプの受験であっても、結局は大手の塾や進学校を中心に「Creative思考法」まで受験対策として教えてしまい、受験生が均一的に「Creativeっぽい」解答をするようになるのではないかと危惧しているが。)

 

昔テレビで紹介されていた中学生の珍解答、

【問題】「打って変わって」をつかった文を作りなさい。

に、「お父さんは薬を打って変わってしまった。」と解答した学生は2020年以降は晴れてCreativeな解答として点数がもらえるようになるだろうか。

 

 

home-ed-mum.hatenablog.com

上の私のブログにも書いたが、オーストラリアの小学生に自身が「Creative」であるかと聞いた場合、9歳にして既に多くが自分はCreativeでないと思ってしまっている。子どもの自己申告なので、本当はCreativeである事を子ども達は気がついていないか、学校生活で上からの指示に従う過程でクリエイティブである事は危険なので封印してしまったかのどちらかではないかと察している。

 

子どもは生まれつきクリエイティブであったはすが、大学入試で「Cerativity」を「身に着けさせられる」のは教育にとっての皮肉だ。

Creativityが大学入試の方法を変更しただけで身につくと思えなかったとしても日本の受験生が大学入学をゴールにして意味のない大量暗記型の勉強を何年もする負担が多少は減るのであれば、今回トップダウンで入試改革をした意味はやはり大きい。

 

前置きが長くなってしまったが、グラットン氏の「経験学習」の比重が多くなるというのは、逆にいえば「机上の学習」の比重が小さくなる、または「机上の学習」と同様に「経験学習」も大切になるという事であろう。

 

『ライフシフト』では、 

インターネットとオンライン学習が発展して、単純な知識なら誰でも簡単に獲得できるようになる。知識の量ではライバルと差がつかず、その知識を使ってどうゆう体験をしたかで差がつく時代になるのだ。…マニュアル化できない暗黙知はきわめて大きな経済的価値を持つ。

暗黙知は知恵と洞察と直感の土台で、実践と繰り返しと観察を通じてはじめて獲得できるものだ。

 

とても興味深いのは、テクノロジーが進歩し人々はロボットに仕事を取って代わられる事や高度な専門的な知識を身につけなければ生き残れないと恐れているが、一方でテクノロジーが進歩しているからこそ、リベラルアーツ(教養)教育、共感能力などの人間的なスキルがより重要になるという点だ。

 

将来的にテクノロジーがどんな速さでどこまで発展できるかなど私の頭では全く想像が追いつかない。それでも、テクノロジーが人間に変わって問題を「発見」したり、対人スキルや共感スキルを駆使して職場で根回しをしたりできる日が近いとも思えないし、どんなに子どもをあやすのが上手いロボットが現れたとしても、自分の子どもの面倒をロボットにさせたいとは思えないだろう。(もしかしたら、人間より優れた人間ロボットがいつかできるかも知れないが。)

 

世界的に均一な「知識」へのアクセスが容易になる中で、知識詰め込み型の労働者への需要は減り、無料の知識があふれる中では知識詰め込み型労働者への報酬も減って行くだろう。

一方で、「経験学習」は何を経験し、その経験を通して何を学んだか、その結果として生じた個々人の問題解決アプローチや発想の違いに価値を見出す。

 

個々の経験やアプローチの違いに価値を見出すとても人間くさい部分が、今求められ始めている事は、日本国民の85%が被雇用者、サラリーマン(ウーマン)である時代の要求に矛盾するようで非常に興味深い。

 

厚生労働省白書『我が国の社会保障を取り巻く 環境と国民意識の変化』

http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/06/dl/1-1c.pdf

では、

就業者に占める雇用者 の割合は…1953(昭和28)年 42.4%だったのが、1959(昭和34)年には50%を(51.9%)、1993(平成5)年には 80%を(80.7%)超え、2005(平成17)年には84.8%となっている。

とし、戦後は約42%であったサラリーマンは2005年では約85%に達している。

一億総中流ならぬ一億総サラリーマンだ。サラリーマンであってもCreativeな職種や業種もあるので、一概には言えないが、一般的な日本の企業のサラリーマンが組織の中でCeativityを発揮している姿よりも、企業内のあらゆる規則に縛られながら働く姿の方が容易に想像がつく。日本だけでなく、欧米の大企業であっても稟議書のような物がぐるぐると回り続ける話を耳にした事がある。企業が大きくなればなる程、ルールは増えざるを得ないし、Creativityの発揮も限られるだろう。

 

もし万が一自営業者や家族従業者のCreativity教育が成功し、Creative人材が育ったとしても、受け皿は一億層サラリーマン社会であって、教育機関はCreative人材を輩出しようと学生を教育してもその結果Ceativityが評価されない社会に放り出される学生は非常に困惑するのではないか。

 

現状で、「経験学習」を基にした人間的スキルを発揮しようと思った場合、1953年辺りの自営業や家庭従業者で労働者の半数を占めていた時代の方より良い環境であったのではないか。

 

私が日本とオーストラリアでサラリーマンをした経験と、個人事業をした経験を比べるとCretivityは断然、個人事業をしていた際に役立つ事が多かった。ジュエリーショップを経営していたのだが、お客さんのニーズや性格、家族構成、ライフスタイルに合わせて自分なりのアイデアを提案した事が喜ばれたり、ショップの内装にしても、ポリシーにしても何処のお店にもないコンセプトで運営でき、それを気に入ってくれたお客さんが海外からもリーピーターになってくれたりした。

「中国語で接客できるメルボルン在住日本人のジュエリーショップ」というのは今振り返ると、グッラットン氏の言う、「経験学習」を生かした働き方そのものだったと感じる。

 

f:id:home-ed-mum:20170813193259j:plain

ジュエリーショップ

 

そうすると、Creativityを発揮するには自営業しかないのかと言うと、そうではない。

日本にいると実感がないかも知れないが、オーストラリアではサラリーマンの自営業化が進んでいるように見える。高度な専門スキルを持っている友人は、契約社員である事が少なくない。契約は1から3年ベースで、企業内で自分のスキルが生かせる部門だけを担当し、契約が終了すればまた別の企業に転職していく。就職活動はクライアント探しであり、自分を売り込む営業活動に似ている点で彼らはサラリーマンであって自営業主のようだ。

 

数年毎に職場を変えるのは、ジェネラリストだと難しいかも知れないが、高スキル保持者の労働市場では日本よりもオーストラリアの方が先を行っている。

 

文部科学省がグローバルな人材を養成するために、Creativityをというアイデアには賛同しつつ、具体的に何故グローバルな人材を養成しなければならないのかを、世界の労働市場の先行きを、国民に示す事ができれば受験対策用のCreativityに終始しない、本当に使えるグローバルな人材を養成するための大きな一歩となるのではと思っている。